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〜証し〜

学生時代はなにをしても中途半端。勉強も運動もたいしてできない。唯一大好きな音楽でさえ中の上程度。当然自分に自信がなく、コンプレックスにまみれ、心の中は妬み、嫉みでいっぱい。自分の環境、状況を呪う日々。

もちろん人の祝福なんて祈れるわけもなく、自分の人生を完全に諦め、腐っていた学生時代。人からどう見られるかが重要で嫌われないよう笑顔を取り繕い自分の意思を押し殺して生きていたから、神様なんていない!と思っていた。

 

友人から教会に行かないかと誘われるようになり、断る事ができず教会に毎週通うようになったのが高校1年生。当時その教会は青年会が盛んで同じ年頃の人達がたくさんいて、しかも音楽に長けた先輩たちがたくさんおられ、自分が今まで見た事も聴いた事もないようなすてきな雰囲気と音楽で満ちていた。人とのつながりで教会に行く事が楽しかった。しかし牧師先生から洗礼を促された時、神様の存在が全然わかっていなかった事、探そうともしていなかった事に気がつかされる。ただ、結局断りきれず洗礼を受けてしまい、その後約8年、真の神が居るのかも分からず彷徨い、苦痛の中教会に通い続ける。

私生活ではその間に就職し、結婚をし、ゴスペルをはじめ、子供を授かり…という人生の荒波のただ中にいた時期。うれしい事、楽しい事もたくさんあったものの、苦しい事、悲しい事、孤独な事、忍耐しなければならない事、待たなければならない事も多々。そんなどん底の時期に神の臨在を感じ始める。それまではゴスペルを歌う事も“楽しいから”“好きだから”という自分本位な歌しか歌えなかった。自己満足だった。でも苦しいとき、むしろ絶望の時ほど、賛美をすると温かい大きな何かに包まれている感覚と、説明ができない涙が溢れ出し、どんなに体調が悪からろうが、心が鬱蒼としていようとも、心に小さな灯が起こり、力が湧き、笑顔になれる事を何度も何度も数え切れないほど経験し、目に見えない、その声を聞くことはできないけれど、神が確かにおられる事を知るようになる。

人前で歌ったり教えたりするなんて絶対にむりだと断言していたわたしが、音楽を通して神様の事を伝える仕事をしているなんて、正直自分が一番信じられない。笑

人間が作った偶像の神ではなく生きた真の神であるキリストの大きな愛に気がついた時、人の評価など気に留めなくなり、神様が創造してくださった唯一の自分を愛せるようになり、更に周りの人たちの祝福も祈れるようになっていった。愛を示すことができるようになった。今では困難があっても全ての事に意味があり、静まり待ち、祈る事を通して必ず希望に変えられて行く事を信じられるようになり、いつも期待でウキウキしている。わたしにとって一番のコンプレックスは、神様の憐れみにより一番の強さと証しとして変えられた。この恵みをできるだけ多くの人たちに分かち合いたくて、曲を作る事、歌う事、教える事を続けている。

それこそが、私が神様から与えていただいた役割だと固く信じて。

更に、私にはまだまだできることがたくさんある!と音楽以外の分野においても好奇心と探究心を持って、常に広くアンテナを張り、神様が次はどのような道を備えてくださるのかワクワク日々を喜び期待して生きている。

 

第二コリント人への手紙12:9〜10(聖書より)

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 

第一コリント人への手紙5:16〜18(聖書より)

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて、感謝しなさい。これがキリスト、イエスにあって神があなたに望んでおられることです。」

​齋藤直江

 

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